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アロマセラピーの歴史

芳香植物の治療への利用は人類の文明そのものと同じく古くから行われていたとみられ、フェンネル、コリアンダー・シード、クミンなど多くの植物が古代の埋葬地から見つかっている。アジアから古代エジプトにかけてと地中海沿岸の多くの地域から、治療用軟膏や医療用油、湿布、癒しのための香の作成に関わる様々な手順や儀式について記述された多くの文書が見つかっている。
 
歴史的に、世界の大文明によって気分を高揚させて病気の治癒を促すための芳香燻蒸が行われてきた。人の魅力を増し幸福感をもたらす、“不思議な香り”について書かれた古い文章が非常に多く見つかっている。宗教儀式に使われるスピリチュアルな香りは、特に古代エジプトとイギリスのテューダー朝で多く使われてきた。

古代時代

芳香油は紀元前の3,500年間よりも長い間人類史の一部であり、宗教儀式、食品香料、薬、香水、消臭の用途にわたり昔から全ての主要な文明を通して普遍的にみられてきた。それは数千年以上も行われてきたため、初めて医療目的で使われた時期は定かではない。

近代の科学的な試験が行われる前には、様々な植物の特性は多くの試行錯誤を重ねる事とともに、動物たちが病んだ時に本能的に食べる植物を観察する事によって発見されてきたと思われる。そこから得られた知識は言い伝えのような形で次の世代へ伝えられ、今日我々が植物療法と認識するものとなりアロマセラピーが発展したのであろう。 

これら初期文明では、ある植物が燃えると特異な作用(催眠、覚醒、幻覚など)を及ぼす事を悟ったと思われる。身体を燻す行為は最も古い時代に記録されているハーブを使った療法の一つであり、悪魔祓いにも度々使われていた。その事から宗教への結びつきが多くみられ、また香りは空気中に漂い、空気と匂いは神の顕現とされていた事から、人と神との間のつながりは香りを通して行われていた。今日においてもこの伝統は東洋のヒンドゥー教や仏教の儀式の際に祭壇で香が焚かれたり、ローマカトリック教会では礼拝の中でフランキンセンスを焚く釣り香炉が使われたりする形で続けられている。

更に遡って新石器時代(およそ6~9,000年前)の東洋では、人類がオリーブやトウゴマ(Castor)、亜麻、胡麻など圧搾抽出して調理や塗布用、また薬用に使える脂肪油を含む特定の植物を発見していたという証拠がある。

インド
古代インドは、人を全体的に捉えようとした初めての文明の一つであった。アーユルヴェーダ(“生命科学”を意味する)として知られる伝統的なインド医療は世界で最も古い医療行為の形式であり、少なくとも5,000年前から今日に至るまで植物とその抽出物が変わる事なく使い続けられている。

最も古く紀元前2,000年頃インドで植物について書かれた書籍は“Vedas”と呼ばれ、サンダルウッドやジンジャー、ミルラ、シナモン、コリアンダーなど700種を超える植物や物質の様々な使用方法が宗教と医療両方の用途で掲載されている。

中国

古代中国の植物の薬効に関する知識は、非常に進んでいた。鍼、指圧、漢方のような治療を含む中国の治療法は紀元前2,500年に遡り、今日我々が認識する“中国医学(TCM)”の基盤となっている。健康であるためには、気(エネルギー)、陰陽(受動的な負と能動的な正)、五つの要素(火、土、金、水、木)のバランスが重要とされる。紀元前2,800年頃、黄帝は病気の原因と治療について“黄帝内経”と呼ばれる書籍を記し、その中には多くの植物についての詳しい解説とそれらを使った療法が含まれていた。これは世界最古の書籍の一つであり、今日においても印刷されたものを入手可能だ。とはいえ、中国が主としてアロマセラピーの歴史に関わるのは柑橘類である。というのも殆ど全ての柑橘類はこの国原産であり、10世紀にアラブ地域を経由して地中海地域に伝わったと考えられているからだ。

エジプト

芳香植物を使ったパイオニアは、一般的に古代エジプト人であるとされている。彼らは香油をお香、薬、マッサージ、スキンケアや化粧品向けとしてだけでなく、非常に洗練されたやり方で死者の防腐処理に使用した。

この時代に蒸留工程が発見された事実を示す記録が無い事から、エジプト人が香油を得られた方法は“アンフルラージュ(冷浸法)”と“マセレーション(温浸法)”だけだったと思われる。マセレーションが芳香植物を油に浸して加熱する必要があったのに対し、アンフルラージュは油に浸した芳香植物を布できつく絞って香成分を取り出していた。

この時代、王であるファラオの庭では世界中から集められた実に様々な薬草が栽培されていた。しかしファラオが祈祷や戦い、情交の時に使用する為の薬を香油から調合し、香水を調香していたのは、当時の聖職者と医者であった。

個人衛生はエジプト人にとって重要な事であり、紀元前1,500年のパピルス文書には発見された最古の体臭を消す調合が記され、エジプトの医者が非常に多くの植物の特性に関して詳しい知識を持っていた事を示している。エジプト人にとって香水を使う事はとても重要で、宗教と密接に結びついていた。実際にエジプトの神々にはそれぞれ個別の香水が割り当てられ、その神々の像に塗られたりしていた。公衆衛生を改善するいくつかの処方や調合は石板に刻まれ、伝え残されている。好まれていた香水の付け方の一つは、円錐状に固めた練香を頭の上に置き、それが熱でゆっくりと融けて頭と身体が香りに包まれていくという方法であった。

古代エジプト人は、保存料としての植物性の樹脂と精油や、寺院内の芳香に熟達していた。実際に1922年ハワード・カーターとそのチームによってツタンカーメン王の墓が開かれた時、3,000年以上もの間封をされていたポットや容器がいくつか発見され、その中には未だ香りのする乳香やスパイクナード、キフィ(後述参照)の軟膏が入っていた。

魂が地球上の全ての動物を輪廻して再び人間に生まれ変わるために時間がかかると信じられていたため、3,000年間ミイラを保存しようと肉の腐敗防止に強い消毒と抗菌作用を持つ香油が死者の防腐処理に使われた。

エジプト人に本当に好まれていた香水の一つが“キフィ”と呼ばれるもので、香水としての使い方に止まらず大量に使われていた。それは消毒やお香や解毒の用途に、またプルタルコス(帝政ローマ時代のギリシャの著述家)によれば人に安眠をもたらし、不安を和らげ、明るい夢を見させる精神安定剤であった。キフィにはショウブ(強力な麻酔薬)、カッシア、シナモン、ペパーミント、シトロネラ、ピスタチオ、ジュニパー、アカシア、ヘンナ、サイペルス等23の成分が含まれていた。古代エジプトではヘリオポリス(太陽の町)で一日3回お香を焚き、太陽神ラーへ祈りが捧げられていた-日の出には“乳香”、正午には“没薬”、そして日没には“キフィ”を。キフィはギリシャ人とローマ人にも使われていた。

また香木やハーブ、スパイス等は神々を祭るために焚かれ、エジプト人は立ち上る煙とともに彼らの祈りが届けられるのだと信じていた。

この素晴らしい文明が崩壊し終焉を迎えた時、新しい医療の中心をなったのはヨーロッパであった。


ギリシャ

ギリシャ人は芳香植物に関する知識の多くを“医療発祥の地”と言われるエジプトのナイルの谷から得ており、これは紀元前4~500年頃にヘロドトスらがこの地域を訪れた事がきっかけであった。ヘロドトスはアッシリアの女性がサイプレスやシダー、フランキンセンスの木に石で傷をつけ、そこに一定の濃度になるよう水を加えていたと記している。彼らは心地よい香りを漂わせようと、これを顔や体に塗りつけた。その後ギリシャのコス島に医学学校が設立され、これがやがてヒポクラテスを支援した事で知られることとなった。

ギリシャに生まれ“医学の父”とも呼ばれるヒポクラテス(紀元前460~377年)は、植物やハーブに含まれる有効な成分について記し、エジプト人から得た知識の全てを書き残している。彼の行う処置にはマッサージやハーブの内服、温泉や物理療法が含まれていた。手術は最後の手段としてのみ行われ、彼は全体観という概念から身体全体を生命体として捉えていた。 

既に紀元前4世紀頃、ヒポクラテスは特定の芳香植物を燃やすと伝染病の予防効果があると認めていた。ある時彼はこの香料の知識を使い、アテネの町を燻蒸して伝染病の流行を防いだ。ガレノス(2世紀-“ローマ人”の説を参照)によって、ヒポクラテスの“自然治癒力”の教えは次のとおり伝えられた。“健康でいるには、芳香浴と香りを漂わせたマッサージを毎日行うこと。”そして、”医者はあらゆる事に精通していなければならないが、とりわけマッサージについては最も知っておかなければならない。”

ギリシャ医療の根幹は、精神と感情と身体のバランスを基本としている。病気はこのバランスが崩れ、これらの三要素、すなわち全体観のバランスが元通り健康な状態に戻らないのだと見られていた。

ヒポクラテスは、今日ではなり立ての全ての医者が忠誠を誓うことになる「ヒポクラテスの誓い」の方でより有名であろう。

しかし最初に香りに関する著書”Concerning Odours“を書いたのはギリシャのテオプラストス(紀元前370~285年)であり、彼はプラトンとアリストテレスの哲学の教え子であった。彼はギリシャ産と輸入される全ての香料について、それぞれの用途を解説したリストを作成した。香油の塗布により体内の働きに作用する事が出来る、というアロマセラピーの基本原理の一つを記したのがテオプラストスであった。彼の”植物学“の業績においては、例えば一年草か二年草か多年草かなどの類似点ごとに分類するなど、初めて体系的な植物の観察記録を行った事が示されている。

ギリシャ人は、甘くかぐわしい香りは神聖なものから発せられると信じていた。古代神話の神々は香油をまとったローブを着て、香りの漂う雲に乗って地上に降り立った。またギリシャ人は、死後に故人は極楽へ行き、そこは香水の川から漂う甘い香りでいつも満たされているのだと信じていた。ギリシャのMagallusは、ミルラやシナモン、桂皮を組み合わせて“Megaleion”と呼ばれる香水を作った。その香水は創傷治癒と抗炎症の特性も持つ事から、国中に知れ渡ることとなった。ギリシャの兵士たちがその優れた抗菌と創傷治癒成分を含んだミルラの入った軟膏を戦場に持参していた事実からすると、そう意外な事でもないだろう

もう一人の有名なギリシャ人はMarestheusという医者で、ある芳香植物が刺激物質を持っており、バラやフルーティ、スパイシーな香りが辛い気分を高揚させる事を認識していた。


ローマ

多くのギリシャ人医師がローマで雇われ、更に彼らの知識を他の先進文明へ伝えていた。しかしローマ人は芳香植物を医療目的に使用するだけでなく、衛生と美容用途へも増やしていった。香油や精油が湯の中に入れたりマッサージ用に使われたり、公衆浴場で日常的に使われていた。

ローマ帝国は巨大になり、実に様々な種類の植物とハーブを手に入れていた。その結果、ローマ人の香水と香油の使い方は過剰であった。彼らは、‘ladysmata’ という固形軟膏、‘stymmata’という油、そして‘diapasmata’という粉末の3種類の香水を使っていた。これらは髪、身体、衣類、寝具、そして入浴後のマッサージ用に使われていた。クレオパトラが香油を巧みに使ってマーク・アントニーをそそのかしたのは有名である。そして皇帝ネロが、妻の葬儀で明らかに一年間にアラビア半島で製造出来た量よりも多いお香を焚いた事もあった。興味深い事に、‘perfume’の語源は “煙を通して薫ずる”を意味するラテン語の‘per fumum’ であり、香を焚く事に関係している。

ペダニウス・ディオスコリデス(紀元前40~90年)は、ネロの時代のローマ皇帝軍のギリシャ人軍医であった。彼は軍医として広く旅をする事が出来(現在のドイツ、イタリア、スペインなど)、薬物誌 “De Materia Medica” (現存する最古のギリシャ植物誌)を書き上げた。これは約500種の植物の生態をまとめた全5巻からなるもので、薬理特性と1,000以上の植物薬についても網羅していた。この本は西洋において少なくとも1,200年間もの間標準的な医学書であり続け、ディオスコリデスが“薬草学の父”と呼ばれる所以となった。“De Materia Medica” は古代のギリシャ、ローマや他の文明で使われた歴史的に最初の薬に関する情報源であり、ディオスコリデスの本に収められた多くの植物の知識は、今日においても植物療法に影響を与えている。

クラウディウス・ガレノスは優れたローマ(ギリシャ民族)の医師であり、外科医、哲学者でもあった。彼の医師としてのキャリアは、傷を研究する機会を得ることとなったローマの剣闘士の傷に植物薬を使って治療したことから始まった。ガレノスに治療を受けた剣闘士に死んだ者はいないと言われ、その功績によって彼はすぐに何人かのローマ皇帝かかりつけの医師に持ち上げられた。香りを感じ取るのは鼻ではなく脳だ、と信じたのはガレノスであった。

時を経てローマ帝国は世界の広大なエリアを支配下におさめていき、それとともに植物の治癒効果の知識も広まっていった。イギリス諸島へ香水を伝えたのはローマ人であった。あちこちから種と植物が集められ、フェンネルやパセリ、セージ、ローズマリー、タイムなどそのうちのいくつかは時を経てイギリスで自生するようになった。

しかしこの大帝国の没落とキリスト教の伝搬によりコンスタンティノープルへ移った多くのローマ人医師らが携えていた貴重な医学書は、やがて様々な多言語に翻訳されていくこととなった。


ヘブライ人と初期キリスト教
紀元前1240年頃、ユダヤ系の人々はエジプトからの集団移動を始め、イスラエルへ向かう40年の旅に出ました。彼らは多くの貴重なゴムや油、そしてそれらの使い方の知識を携えていました。旧約聖書の出エジプト記によると、神はモーセに、没薬 (ミルラ)、スイートシナモン、ショウブ、カッシアとオリーブ油で「聖なる注ぎ油」を作り出すように教えました。このような調合は触れた人を守る、非常に強力な抗ウイルス・抗菌力をもたらしたことでしょう。そればかりか、没薬の傷を癒す効果は、以前からすでによく知られていました。 

ヘブライ人の文明においては、年間を通して女性の清めが行われていました。最初の6か月間は定期的な「没薬の油」の塗油が行われ、残りの6か月間は他の芳香性植物が使われました。集団移動の間など入浴が現実的ではないときには、ユダヤの女性は没薬や他の芳香剤を入れた小さなリネンの袋を紐で胸の間に下げ、防臭剤にしていました。

古代のインドの寺院にサンダルウッドが使われていた一方、エルサレムにあるソロモン王の神殿は、芳香性のあるシダーウッド (「レバノンスギ」) で建てられていました。おそらく、宗教的儀式を執り行う際の、落ち着いた雰囲気の必要性が認識されていたのでしょう。

記録によると、フェニキア人の商人たちは、貴重なシナモン、乳香、しょうが、没薬を東方からもたらしたといいます。イエスの誕生の際に捧げられたのは、これらの非常に貴重な品物のうちの2つ、乳香と没薬で、イエスの神のような地位 (乳香は神への贈り物) と、死 (没薬は死者の防腐処理のために使われていた) を象徴していました。なおもう一つの贈り物、金は、イエスの王としての地位の象徴でした (金は王への贈り物)。

甘松はインドから輸入されたと評判で、マグダラのマリアがはりつけ前のイエスに注ぐために使用し、十字架にかけられたイエスのもとに掲げられた海綿は、酢と没薬を含んだものでした (おそらくはりつけの苦しみを和らげるためのもの)。


中世 (紀元後500-1500年) 
アロマのエッセンスや液体をヨーロッパへ持ち帰ったのは、十字軍の騎士たちでした。これらが非常に人気となったので、芳香剤が生産されるようになりました。しかし、このような植物やハーブの真の価値は、14世紀、ヨーロッパにペストが到来して初めて理解されたのでした。夜間、街角に火を灯すよう命令が下り、燃やされたのはとりわけ、乳香、安息香 、パイン (松) でした。屋内での死の臭いや伝染病との闘いには、香煙や香りのするロウソクが用いられました。また芳香性の「ばらまき用」ハーブも使われました。地面に撒いて踏み潰されることによって芳香を放つのです。これは伝染病を抑え、非常に不快で不健康な体臭を消すためのものでした。したがって当時アロマは、黒死病 (ペスト) と闘うために広く使われており、人々は芳香性植物を頻繁に持ち歩いたり、オレンジにクローブを詰めた匂い玉という形で身につけたり、薬草のブーケを携えたりしました。これら芳香性植物は、当時はペストの防止に最も適した殺菌方法で、人々はそのことを知っていたのです。興味深いことに、薬剤師や香水商は常に芳香性植物原料を扱っているため、ペストに免疫があると考えられていました。

当時の医者は、シナモンやクローブといった芳香性のハーブが入った袋で鼻を覆っていました。吸い込む空気をろ過し、ペストを防ぐと考えられていた清潔な空気を作り出そうとしたのです。また歩いて移動する時には、てっぺんに浮かし彫りが施され芳香性のハーブが入った長い杖を、正面で振っていました。吸い込む空気が殺菌されると期待してのことです。医者たちはこれらの方法を、中世から17世紀にかけて使い続けていたのです。

しかし当時、芳香性植物の栽培の主な担い手となったのは修道院でした。中にはタイムやメリッサ (レモンバーム) など、イタリアからやってきたものもありました。これら芳香性植物の庭園は、後に植物学が薬学の一部となる頃、医科大学によって引き継がれました。ルネサンス期には植物園にまで発展、あるいは「薬草」の庭園として後に知られるようになったのです。1621年、英国で初めて設立された薬草園は、オックスフォードにありました。

12世紀、ドイツの女子修道院長、ビンゲンの聖ヒルデガルト (1098-1179/9/17) は、その癒しの力を利用するためにラベンダーを育て、精油も使用していました。チンキ剤やハーブ、貴石を活用した彼女の治療能力もよく知られていました。 

中世を通して、当時のアラブ文明との主な交易ルートはベネチアを経由しており、香り付き革手袋の大流行は、ここに起源を辿ることができます。イタリアの貴族カトリーヌ・ド・メディシスが、1533年、未来のフランス王との婚礼に際し、このファッションを他のヨーロッパ諸国に紹介した可能性があるのです。このとき彼女は香水商をフランスに同行させていました。当時フランスのグラースは、主に革を生産していました。しかしこのファッションの人気が出始めた頃、グラースの抜け目のない商売人が、町の近郊で育てた芳香性植物で、革に香りを付けることを始めたのです。ゆくゆくは月下香、アカシア、スミレ、ラベンダーやバラなどの植物を使うようになりました。この流行が衰えると、次第にグラースの皮革産業は、香水の生産に取って代わられるようになります。これが現在まで残っているのです。  

15世紀の終わりには、現在のスイスにあたる町で、フィリップス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム (1493-1541) が誕生しました。一般にパラケルススとして知られる彼は、名高い医者、占星術師、外科医、そして錬金術師となりました。16世紀、医学に革命が起こり、現代医学と代替医療、両方の基礎が築かれた時期です。植物の粗い部分を、より繊細な要素から引き離すことに成功したのは彼が初めてでした。つまり植物に存在する活性化学物質を分離するということで、この工程は現在の製薬業界ではお決まりの手法となっています。1536年、彼は『大外科学』を執筆し、錬金術 (現在の科学の元となった言葉。下記の「中世イスラム世界」参照) の役目は卑金属を金に変えることではなく、特定の植物からの抽出物を使って治療薬を作り出すこととする立場を明確にしました。彼はその抽出物を「第五元素 (quinta essentia) 」、つまり「精髄 (quintessences) 」あるいは、「精油 (essential oils) 」と呼びました。植物の最も重要な部分を取り出す蒸留の重要性を彼は強調したため、シダーウッド、シナモン、乳香、没薬、バラ、ローズマリーやセージといった特定の精油は、 1600年までに薬剤師によく知られるようになりました。


中世イスラム世界
アラブ人の医師、哲学者であるアヴィケンナ (イヴン・スィーナー) (980-1037) は、ペルシャのブハラに生まれました。彼は16歳で医学を学び始め、20歳までには宮廷付きの医師に任命され、「医学の第一人者」の称号を与えられました。彼は様々な植物の身体への効果に関する多くの本を執筆しました。『医学典範』を意味する、14巻の『Al-Qanun fi al-Tibb』は、歴史的に重要な医学の百科事典で、ここにはヒポクラテス派とガレノス派の伝統も盛り込まれていました。そして700年以上に渡り、西ヨーロッパやイスラム諸国における、権威ある医学の教科書・教典となりました。  

彼はまた、冷凍コイルを発明し、当時非常に単純だった蒸留方法を改良したと考えられています。冷却パイプを延長してコイル状にすることで、蒸気がより早く効率的に冷却されるようにしたものです。この改良された蒸留方法における、彼の最初の大成功は、ローズセンティフォリア・オイルの製造でした (最終的に、13世紀に主なバラの生産地となったのはシリアのダマスカスで、次第にこの名前を取って「ダマスクローズ」と呼ばれるようになります)。

アラブ人による、もう一つのとりわけ面白いエッセンスの活用法は、モスクを建てるために使う漆喰に香りを付けることでした。この非常に興味深い技術は、古代バビロニア人から受け継がれたものです。


チューダー朝 (1485-1603)
英国ではエリザベス一世の時代までは、香料製造はあまり広く行き渡りませんでした。残念ながら西洋世界では、中世からチューダー朝の時代まで、劣悪な衛生状態が続いていたのです。このため悪臭を紛らわせたり、危険かもしれない「毒気」を無害にしたりするための、様々な手法が必要となりました。一例として、1611年から続くカルメル水、あるいはオーデ・カルムがあります。これはフランスのカルメル会の修道女達によって作られたもので、メリッサを含んでおり、何世紀にも渡って一般的に用いられました。

アクア・ミラビリス、あるいは「驚異の水」も、当時 (1665) 考案されたものの一つで、イタリアからケルン (Cologne) に移り住んだ元フランシスコ会修道士によって紹介されました。その製造法は、彼の甥であるJ.M.ファリナの努力によってようやく有名になり、「オーデ・コロン (Eau de Cologne) 」として知られるようになりました。ベルガモット、オレンジ、レモン、ローズマリー、ラベンダー、タイム、そしてネロリの精油が含まれており、度数の高いエチルアルコールで希釈し、健康を促進するローションとして使用されました。

16世紀におけるもう一つの発明は、ハンガリー王妃の水 (ハンガリー水としても知られる) で、新鮮なローズマリーの花、セージ、バラ、ラベンダーを含み、アルコールで蒸留したものです。

しかしアロマウォーターだけでなく、エッセンスの使い方は他にもたくさんあります。英語で匂い玉を意味する「pomander」という単語は、フランス語で「琥珀のりんご」もしくは「りゅうぜん香の玉」を意味する「pomme d’ambre」に由来します。匂い玉には様々な形がありますが、基本的には芳香性物質を通気性の良い袋や箱に入れたもので、衣類やリネンに香りを付けるのに使ったり、感染症の予防として持ち歩かれたりしました。クローブを埋め込んだオレンジやりんごも、同じ目的のために使うことができます。同様に、ムスク、バラの花びら、ハーブやスパイスを混ぜ、樹脂やゴム、ろう、土といった物質でできたドロップ状、もしくは芳香性の球状のものもありました。

中世から17世紀に至るまで、匂い玉は持ち歩かれ、鼻先に掲げられ、鎖やベルトに下げられ、もしくは悪臭を払ったり、衣類をさっぱりとさせて着ている人からいい匂いをさせたりするために、部屋に吊り下げられたりしました。これらの芳しいハーブとスパイスは、感染症を追い払い、身に着けている人を病気から守ると信じられていたのです。エリザベス一世は、ダマスクローズ、安息香とりゅうぜん香の香りがする匂い玉を持ち歩いていたと言われています。女王への新年の贈り物リストには、匂い玉もいくつか載っているのです。


17世紀 
この時代は薬草が広く使われており、残念ながらペテン師や偽医者が簡単にお金を稼げるようになってしまいました。そのため不運にも薬草による医学は、当時の医師や医療の専門家から重視されなくなり始めました。

それでもこの時期は、カルペパーやジェラードといった、偉大な英国の薬草医の黄金時代でした。ニコラス・カルペパー (1616/10/18–1654/1/10) は植物学者であり、薬草医、医師でもありました。伝統的医学の権威を否定したパラケルススのような、医学界の改革者による著作に刺激を受けたカルペパーは、ラテン語が読めない医者でも医学と薬学の知識に触れることができるように、英語で本を出版しました、1653年に出版した『ハーブ事典 (The Complete Herbal) 』の中で、カルペパーは薬用効果のあるハーブを何百も挙げています。この本は41版まで出ており、現代の薬草医学にも影響を与え続けています。  

蒸留工程の進歩により、多くの精油が薬草医にとっての「マテリア・メディカ (医薬品) 」に加えられました。さらに、多くの家庭が自家製の料理用ハーブを備えているだけでなく、自前の「蒸留室」を持ち、そこで女性が家庭用の薬、酢、ワイン、蒸留酒を作っていました。このような作業は「シンプリング (simpling) 」と呼ばれていました。

この世紀の終わりには、薬剤師、医師、そして錬金術師の間に隔たりができていました。錬金術は今でいう化学と薬学の専門職となり、物質と精神の相関性への関心が別々に分かれることで、医学と心理学との間の繋がりが事実上断たれることとなりました。


18世紀と産業革命
1700年頃、精油の使用は主流医学の一部となっており、化学の発展により研究室で合成物質を作り出せるようになるまで、それは続きました。例えば、ヤナギに含まれる有効成分であるサリチル酸は、1852年に人工合成されました。薬の主要な提供者として、研究室が薬草園に取って代わり始めたのはこの時代でした。

残念ながら他の多くの例に見られるように、英国の産業革命は多くの古くからある手法の衰退を招き、ハーブや薬草の活用もその例外ではありませんでした。人々はより儲けになる仕事を探そうと田舎を出て、工業地帯のほとんど庭地のない集合住宅に移り住みました。その結果、悲しいことに、新鮮なハーブを料理に使ったり、「シンプル (simples/薬草) 」を活用したりする技術は失われてしまったのです。


19世紀の科学的アプローチ
精油の抗菌効果に関する、記録に残る最初の実験は1887年に行われました。これはもともと、肺結核の蔓延や、花やハーブの加工を仕事とする人たちには呼吸器系の異常がほとんど認められないとの所見を受けて行われたものでした。

そして1887年、精油と微生物へのその効果に関する最初の科学的研究が始まったのです。さらに進んだ研究はチェンバーランドによってフランスで行われ、後にカダックとムーニエによって裏付けられました。この研究によって、精油には腺熱と黄熱病の原因となる微生物を殺す力があることが立証されました。

新しい化学工程の発展のおかげで、植物から油を抽出することが容易となりましたが、同時に人工の安価な精油成分も作り出されました。このため個々に合わせた自然な調合よりもむしろ、人工的な成分を含む治療薬が、商業量産されるようになりました。薬草から作った薬はすぐに、科学的に作られたそれらと比較して、「いんちき療法」だと見なされるようになりました。 

1896年までに科学革命が始まり、化学はかつてない発展を見せていました。新しい発想によって、活性化合物を植物の中から分離したり、大量生産のための合成が行われたりして、大量に、安価に、一律の基準で生産することが可能となりました。残念ながら、人工のものには、本来のものより非常に少ない治療成分しか含まれていないということでもありました。 

精油が分子レベルで分解されたことによって初めて、化学者は古くからある精油の様々な化学成分や、その神秘的な性質を認識し、名前を付けることができました。ゲラニオール、シトロネロール、シネオールといった成分が発見され、安価な人工のコピーが生産されました。

これらの人工のコピーは非常に強力であることが示され、現代の薬の基盤となっています。しかし不運にも、自然界の産物をこのように弄んだために、人工的な薬を使用すると様々な副作用が起こるようになりました。副作用は、それ自体の治療が必要となることも多く、さらなる副作用や問題の発生を招くことになります。

残念ながら自然のエッセンスは、公式な医薬品の基準からはたいてい外されており、駆風作用のある成分や香料といった、いくつかの例外があるのみです。

香水業界もまた、この時期に堅調な発展を果たしました。元来の自然のエッセンスに加えて、これら新しい芳香性化合物の使用を完全に受け入れたのです。フランスのグラースが、エッセンスの生産と抽出における、世界の中心となったのもこの頃でした。

悲しいことに、医学への科学的アプローチが発展すると、薬草による医療やアロマによる治療は「いんちき療法」や「迷信」だと見なされるようになり、効果的な治療法としての信頼を失っていきました。


20世紀のアロマセラピーの発展
イタリアの医師レナート・カヨラと、ジョバンニ・ガリは、1920年代から30年代にかけて、精油の心理的効果に関する実験を行いました。抗菌効果もそうですが、精油の持つ血圧、神経系、脈拍と呼吸速度に対する効果、具体的には刺激・鎮静効果が観察されました。

第二次世界大戦後に英国へ初めて導入されてから、アロマセラピー業界は着実に力をつけており、その慎ましやかな始まりの頃と比べ、いっそう体系化されてきています。そして、美容セラピー業界という原点から、医療環境、病院、GP (総合診療医) の診察所や、代替医療センターなどへと拡大しています。

アロマセラピーに対する臨床的アプローチは、フランスで発展を続け、1969年にはモーリス・ジローが、シュローダーとメッシングの研究に基づき「アロマトグラム」を発展させました。アロマトグラムは、特定の微生物病原体との関連から、特定の精油の抗菌力を特定するという実験技術を利用しています。この新たな手法によって、精油の潜在的な抗菌力に関する、さらに進んだ調査が数多く行われました。

その間、フランスでは、ダニエル・ペノエル (医学と自然療法の研究者) が、ジャン・バルネの研究に興味を持つようになっていました。彼は化学者 (ピエール・フランコム) と協働し、のちに「科学的アロマセラピー」と呼ばれるものを発展させました。焦点は精油による感染症の治療で、今日ではこのアプローチは「アロマトロジー」あるいは「アロマティック・メディシン」と呼ばれています。 

20世紀のアロマセラピーの先駆者たちをご覧ください。

次第に「国際アロマセラピスト連盟 (IFA) 」を先駆けとして、業界を代表する各専門機関が設立されました。この新しい療法にいっそうの信用と体系化をもたらすためです。結果として、アロマセラピーの教育水準は大きく向上し、精油の品質や業界内の自主規制、アロマセラピー連盟の統括組織、ECの法規制、NHS (国民保険サービス) 登録といった課題に対応するために、他にも様々な組織が設立されました。

今ではアロマセラピーは、補完医療において最も人気が高く効果的なものの一つです。ささやかな精油のその有用性は数千年の経験に基づいた知識であるにもかかわらず、アロマセラピーの効能は今ようやく、世界中の研究所での臨床研究によって証明されているところなのです。